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選択と処理速度

プライオリティという言葉。

例えば「今日は仕事をする。」

又は、「今日は遊ぶ。」

私達は、この二つ(実際はもっと複雑な場合が殆どだが)からどちらかを選んでる。選ばない訳には行かないから選ぶ。

民主党か自民党か、徒歩か車か、賃貸か分譲か、イタリアンかラーメンか、そもそも食べるのか食べないのか。

私達は日々、時々刻々なんらかの選択をしている。意識的であれ無意識的であれ、選ばない訳にはいかないので選ぶ。

そしてそれは何を目指して「選択」しているのか?

あなたは何を目指して選択していますか? 私は「幸せ」を目指している。きっと殆ど(全て?)の人はそうだろう。

しかし、その「幸せ」とは「何時」の「幸せ」なのか。

ダイエットをしている人は、目の前の食べるという「幸せ」を犠牲にして将来の痩せるという「幸せ」を選択している。
しかし、人間はその時間軸で分断された二つの「幸せ」を前にして揺れる。ぐらぐら揺れる(笑)。

死ぬ時に笑って死にたい。その為に目の前の欲求に打ち勝つ。未来の「幸せ」の為に今の「幸せ」を断つ訳だ。

しかし、その予想が正しいという保証は当然どこにも無い訳で、結果、今の「幸せ」も将来の「幸せ」も逃す場合も有る。
そのリスクも込みで、でも我々は日々選択している。しない訳にはいかないからだ。

選択しないというのも一つの選択でしか無いから、選ばないという事は死ぬという事と同値だ。
だから「選択」するしか生きる上での選択肢は無い。

しかし、四六時中意識的にそんな事はしていられないから、「反応」という手段を我々は得た。
何らかのアクションに対し、考える前にリアクションをする。過去に、こういう場合はこう反応すると自分の利益になると、一部はDNAの情報によって、殆どの場合学習してリアクションする。条件反射とかが最たる例だ。

しかしこの学習というのがくせもので、自分で学習しているならまだしも、体験は伴わずに「こういう時はこうですよ!」と教わった事が実はかなりな割合を占めていたりする。実証を経ていない学習だ。

確かに直接の先人達(親とか教師とか)が、彼等が自己学習して備蓄した事もあるだろう。しかし、実は彼等も彼等の先人達から実証を経ずに学習した事は予想以上に多い。

「歩きながら物を食べてはいけない」
そう教わった人は多いはずだ。しかし何故いけない? こぼすから? こぼすと汚いから? みっともない? そもそもみっともないって何だ?

「いけない」という言葉は「不幸」とインデックスされている。それをすると、自分が「不幸」になる。直接自分に「不幸」ではなくとも他人が「不幸」になる事によって、巡り巡ってやはり最後は自分が「不幸」になる。
そういう先人の学習結果がそういう「礼儀」だったり「慣習」だったり「ジンクス」だったり「迷信」だったりする訳だ。
それを先人は後人に伝える。多くの場合、それが「文化」を形成している。

しかし、時代は移る。状況は変わる。

「不変」な事なんて物理法則とかを除けば実は殆ど存在しない。ただ、変わりづらい物事と変わりやすい物事があるだけだ。

「人を殺してはいけない」
この文言に真っ向から反対する人は殆ど居ないだろう。これは人類というタームで見た場合、ほぼ確実な同意事項だ。

何故か?

簡単だ。殺す事を良しとする文化と、殺す事をタブーとする文化があったら、ほぼ間違い無く後者の文化が永続するからだ。
集団は生き永らえるベクトルを取る。これも同じで、生き永らえなくてもよい集団は結果消滅してしまう可能性が高いから、そもそもサンプルに入らない。
残っている集団(この場合は人類)は自己保存本能があるからこそ、残っているのだから。

しかしこのルールも例外事項がある。

民族や宗教や主義などの、より人類より細分化された集団が、人類という括りよりもプライオリティが高い場合は、自分が属するのではない他の集団に対しては、自分の集団を生きのびらせる為に「殺す」事が実行される。集団のプライオリティの階層が変化する訳だ。

「殺人者は殺せ!!」
殺す事は悪だから、殺した者は殺せ。死刑廃止論の文脈でも、殺人を否定するのに自分達は殺人者を殺人する事ははたして善なのかと問われる。 これも、人類の自己保存本能にてらせば、これ以上の殺人を犯させない為に、例外として最後の殺人(死刑執行)をする事は理に叶っている訳だ。だからメタ殺人として死刑は有る。メタだからかんべんしろと。必要悪だと。

しかし、果たして死刑はトータルでの幸せを生んでいるのか? 生むと思っているから死刑は有る。しかし、トータルで不幸を生むと思う人は死刑廃止を唱える。主義が違うから論争になる。論争するしか無いからだ。
しかし、この「死刑は必要悪」という学習も先人から教わった「先入観」ではなかったか? 死刑が無い社会で本当に「幸せ」よりも「不幸」が多くなるという実証例は有るのか?

こんな事はそもそも簡単に結論など出ない。だからこそ論争になるのだが、今の社会は簡単に結論が出ない事象であふれ返っている。デジタル化した著作権の有り方、拡大する貧富の差、核問題、温暖化、挙げていけば切りが無い。

もっと言うなら、結論が出たというのはどういう場合を言うのだろう。結果がすぐに検証出来る物事は良いが、長いタームで見ていかなければいけない事は本当の事は結果が出るまで解らない。失敗したらリスクも甚大では無い。多数決による民主主義、シミュレーションによる検証、集合知。場の雰囲気で流されてなしくずし的に決まった気分になっている事が実はどれ程多い事か。

21世紀になって早10年。この100年、200年はそれ以前に比較して幸か不幸か幾何級数的に文明が進んだ。それまで気が付けなかった事象に雪崩のように遭遇した。文化や慣習も劇的に変わらざるを得なかった。

しかし人間のデータ処理は全然それに追い付いていない。

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カテゴリー:Uncategorized
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